prologue.
床を蹴り、駆ける。左手に持った短剣を薙ぐと、視界の端に自分の髪が投げ出された。金の髪を三つ編みにするようになって、どれくらい経つだろう。自分自身、気に入っていない訳ではない。他人から流麗といわれることもあって、しかし自分では、よくわからなかった。
突進。中空に放った刺突を素早く自分の側へひいた。そうして架空の相手が避けた、と思われるほうへと踏みだし、右手に斬撃を見舞う。相手の退くに間に合わず、場に残った足をたたき割らんとばかりに踏み込んで、短剣は袈裟に斬りつける。タイミングから、浅い、と見て渾身で横蹴りを見舞い、そのままバランスを崩してよろけて転んだ。
格好悪い。
とっさに、辺りを見回してしまう。
立ち上がって誰もいない場を、一人で取り繕うように体を払った。
相手がいれば今の蹴りは当たったはずで、そうしたらその反動があるからバランスを崩すこともなかったのだと、誰にいうでもなく言い訳もある。
強きの意味を問われる世の中ではあったが。
しかし、鍛錬をやめようとも思わなかった。
1,
バザルタ本部は地下、訓練室。
静謐な空間に、自分の呼吸音だけが甲高い。疲労は全身にのしかかって、息が別の生き物のように乱れていた。すこしずつ整えて、額の汗を指でぬぐう。それからレンは、出入り口の扉をじ、と見つめた。
誰か来るだろうか、と淡い期待がないでもない。
現在では――現状、七騎士の間を除いてのことだが――バザルタ本部は誰でも自由に出入りすべしとされ、一般に開放されている。これはタイロンの提案による政策で、七騎士の特権的なイメージを少しずつでも削ぐことを目的としたものだった。「なにも変わんねえだろうがな、それでもやらないよりはいいんじゃねえのか」とは意見を唱えた本人の弁で、だからこの訓練室も実は、誰もが利用することのできる公共の場となっている。
とはいえ下区の誰かが実際に訪れた、という話を聞くことはない。形だけの公共性であり、まさしくなにかが変わったという感はなかった。いまだ恐れ多いというイメージが付きまとうためか、あるいはもはやも強くなる意味自体が薄くなりつつあるためか。それどころか強きの頂たる七騎士にあってさえ、もはや自分を鍛えるに精をだす人間は少ない。ふと世間を思えば、隔世の感もある。
あるいはハースなどは。
と、レンは想像する。彼なら、未だ自分を鍛えることに余念がないのかもしれない。已然として行方不明の男。時折ふらりと帰ってきては、ジグに喧嘩をふっかけたり、負けて町の補修を手伝ったりしていると聞いた。
最近に限っていえば実のところ、それ以外の七騎士にあまり訓練を行っているイメージはないのだった。仕事の量を考えれば仕方のないといえ、それが寂しいことだと感じる自分もある。
ジグでさえ。
とレンは思い、かぶりを振った。寂しいのは、そうした理由ではないのだから。
そんな中にあって今でも彼女は公務の間を縫い、普段から時折訓練室を利用するようにしている。
鍛錬のためだけでもなかった。悩みがある時に来ることが多いと、一応の自覚はある。
七騎士の協議のあと、いわれたことにどうしても答えがでない。「考えておいて」というイゴリダの言葉。ジグと、自分に。恐らくは別々の意味合いを持って胸に刺さったはずだ。
ならば自分は、と考えているうちに足はこの訓練室に向き、なにを考えるでもなく体は動いた。
そして鬱憤を晴らすように一人、一通りの訓練をいつの間にか終えている。
答えはでていない。
助けが欲しい。
そうしてだらりと弛緩したまま、
――誰か、こないかな――。
そんな風に、自分でも意識するかしないかの願望をこめて扉を見つめていた。
益体もない願望である。
それを、叶えたというわけはないだろうが。
ぎぃ、と重い音を立て、扉は開いた。
すこし驚く。
心を読まれたような気がして、ほほが紅潮するのがわかった。
「――なんだ? 先客か」
「ジグさん?」
だった。
訪れるのは、珍しい。
「訓練ですか」
「いや、誰も使ってないようなら、休むのに使おうと思ってたんだが」
聞くと、そういってそっぽを向き、ジグは指で軽くほほをかいた。
口にこそしなかったが、しかしその表情は「お前がいたか」と語っている。
目障りそうなその態度に、レンは目を細める。
つとめて強張った顔にならぬように意識した。
「いま部屋の合い鍵を、リドが持ってる」と、ジグは言い訳のようにいった。
「……なるほど」
レンは得心して頷く。
リド。親しくはないものの、さすがにレンも顔くらいは記憶していた。なにか新種の鳥が威嚇しているような髪型の男で、たしか租界のナンバー2、だったように思う。
見ればジグの表情には、珍しく疲労が浮いているようだった。彼に限って原因が公務に忙しいためとも思えないが、恐らくは自分と同じような悩みで気疲れがあるのだろう。なるほど、リドという彼は疲れている時に、あまり訪ねてきてほしくない類の人物なのかもしれない。
そのせいで自分の部屋でくつろげないというのも同情できる話だが、そもそも誰彼構わず部屋の合い鍵など渡すのが原因である。先日もジグは同じ七騎士の一人、『光弓の天秤』に合い鍵を渡し、その件で一悶着あったばかりなのだった。
色んな人に鍵を預けるのをやめればいい、といおうとしたが、裏にある自分の、別のの願望が露骨に思え、レンは口をつぐんだ。
代わりに、
「えっと、それじゃ、寝ていきますか?」
「いや」
返答はなにか逡巡するかのよう。ジグは、レンのほうを伺うように見た。
「あ、わたしはもう使い終わったので、部屋に戻りますけど」
いうと、そうか、とジグは頷いた。
床で寝られるというのは、ジグの一つの特技だとレンは認識している。「野宿でも気にならない」とは本人の弁で、むしろ柔らかい布団で眠れないというあたり、レンにはどうしても理解し難い習性だった。「体が沈む」などといって悄々とするジグの様子は少年じみていて、やけに可愛らしく思えたものだが、しかし七騎士になってから、自室では床で就寝しているというのだから驚かされる。
レンは実際に、部屋を訪ねた際にジグが床で寝ていたのを見たことがある。
その時は、
――この人はもの凄く寝相が悪いのだろう。
などと解釈したものだが、実際には、好んで床に寝ている、というだけの話だったわけだ。
デリケートなのか大ざっぱなのか、判断に困る習慣だと思う。
それでも、自室のベッドがジグにとって、よほど寝心地の悪いものであるのは事実なのだろう。租界の布団が一番具合がよかった、などといってはわざわざ持ち込もうとしたことさえあって、その際は、主に女性陣の反発にあって諦めていた。
豪奢な内装は確かに趣味がいいとは評価し難く、またプライベートの場とはいえ、わざわざ美観を損ねるのはいかがなものか――。そんな風に思ったことを、覚えている。
本部の建物はもちろん元々バザルタ家の持ち物で、かの家の末であったユーリが草場の陰で泣いているのではないか――そんな風にも感じられ、
とはいえ、まあ、泣かせておけ、という人間ではあるのだが。
「あんたは」とふいにジグがいった。「訓練に使っていたのか?」
「え? ええ、はい」
質問の意図のわからないままに、レンは頷いた。というより、そうでなかったらなんだというのだろう。睡眠に使おうとなどという人間が、この世に二人いると彼女には思えない。
睡眠についていえばレンのほうはむしろ、ベッドでなければ眠れない質だ。屋敷を引き払ってから野宿の経験もないではないが、ついぞ慣れることはなかった。ランカーとして下位のころも、自分を慕ってくれていた人間があれこれと世話をしてくれていて、おかげで硬いベッドなるものを体験したことはない。
話だけなれば、世には品質の悪いベッドというものがあるとは知っていて、だから、居住区宿舎のジグの部屋にいった際にはどうにも、彼のベッドが気になったものだ。これが音に聞く堅いベッドというものかと――。
つまり気にしていたことには、別に他の意味はないのだが。
「あんたは」
ジグはなにかを思案する表情で、
「もっと強くなる気なのか?」
「はい、もっと、もっと強くなりますよ」
いずれ、あなたのことも倒してみせます、とレンはあえて笑ってみせた。彼を倒すことは、自身の目標の一つになっている。
ジグ。ランキング一位。世界を救った男。最強の人。同期。何より自分にとって、
――自分にとって?
思考をとめた。
嬉しそうにレンが答えたのと対照的に、ジグはすこしだけ、いぶかしむような様子で目を細めていた。不機嫌、というよりは、不可解、と感じているような表情だった。
「どうして」
「え」
――どうして、って。
意外なことを聞かれ、問い返すのも一瞬忘れた。
惚けたようにレンはジグのことを見つめる。
「……え。ジグさんは、強くなりたくないんですか?」
「なりたい。おれはな。でもあんたは違うんじゃないのか」
「え、っと?」
「強さは手段、じゃなかったのか?」
いったかもしれない。
「今でもそうか。強さは、手段なのか」
問いに、レンはとっさに答えることができない。
とりわけ語調が強いわけではない。ただ、自分を見るその目だけが、強く、こちらを射貫いている。彼が言葉に込めたその意味を、恐らくレンは正確にくみ取ることができた。脳裏にイゴリダの言葉を思いだす。
彼女はこういったのだ。
曰く、
『あなたたちに、不正を働いて貰いたいの』
と。
2,
矛盾するようだが現在、七騎士の最大の目的は、七騎士という存在を撤廃することにある。強きがすべてを手に入れ、また政をも兼ねるという現状。これを改革することが、現七騎士の最終目的といえた。
しかし様々な理由から、その改革を七騎士が行うのは難しい。ランキングの撤廃。それを徹底するならばまず、七騎士こそが政治から降りるのが道理である。しかしそこを降りてしまうなら、改革の先頭に立ち、舵を取る人間がいなくなる。自己言及的な矛盾である。こうした壁が現状あまりにも高く、計画は難航しているのだった。
そうした堂々巡りの議論の中、「外から反七騎士の声が高まれば一番いいのですが」と冗談にもならないことをいったのはロザだった。しかし確かにその通りで、求められている人材はそれである。
つまり、七騎士の外の実力者が、必要なのだ。
とはいえ結局のところ、やれることからやっていくしかない。当面はインフラを整備しつつ、「七騎士に現状匹敵しうる強さを持ち、ある程度の人望があり、人間的に信用がおけ、近い理想があり、かつ現七騎士と癒着するのを拒まない人物」を平行して探していく、という長期計画が立っていた。改革はその人物を中心として進めるわけである。
もちろん、見つかるわけがない。
いくらなんでも条件が厳しすぎる。
そう、誰もが思っていた。
その矢先、
「見つかったわ」
そんな風に、あっさりと協議で発言したのはイゴリダである。薄桃色の唇は優雅に持ちあがり、視線は挑発的に面々を見渡した。隣に立つマキスも、恐らくは調査に協力したのだろう。その微笑みは自信に満ちたものだった。
七騎士は、ハース以外の六人が場に揃っていた。
「中心になるのは彼しかいない、と思うわ」イゴリダはいった。「最近名を上げてきたランカーで、盾使い。パラディンだの、スーパーナイトだのと怪しげな自称をする男よ。実際に接触してみたけれど、名家の出で人望も人柄も申し分なかった。ランク制度に不満を抱いていて、改革を志す熱血漢。なにより紳士的ね」
「実力は」とファズがいった。
「タイロンが仮面をつけて、出自を偽って戦ったけれど、私の見たところほぼ互角」
本人は否定するかもしれないけど、と、イゴリダが悪戯げに視線をやると、当のタイロンはふんぞりかえり、はん、と一つ鼻を鳴らした。否定はない。実力は確かだ、ということだろう。
「難点をいうなら変人ではあったけれど。まあ、それはこの場の全員もれなくそうだから、特に問題にはできないでしょう」
レンを含む何人かがぴくりと眉をあげたが、イゴリダが恐らく気づいた上で無視した。
「ハース以外の全員には、近々何らかの形で彼と接触してもらおうと思っています。それで問題があるかどうかを検討して、……あまり未来の話をするのは気が引けるけれど」とイゴリダはそこで一度言葉を切り、そして全員の顔を見渡した。「彼を中心に、七騎士と、ひいてはランキング制度を撤廃する改革を進めていきたい、と私は考えているの」そういった。
「そこで、ハースを外す理由がなにかあるのか?」ジグが聞いた。
「ハースが勝負をふっかけにいって、勝ってしまったらどうするの? 彼が現七騎士よりも劣るという話が立ったら、たまったものじゃないでしょう。それで全部がおじゃんになるわけじゃないけど、とてもリスキーだし。ええ、もちろんジグ。あの戦闘マニアの欲求不満を、あなたが全部受けとめるというなら、ハースをのけ者にする理由はないのだけど」
「わかった。ハースには秘密にしておく」
「賛同して貰えてよかったわ」
艶然とイゴリダが微笑んで、再び厳しい目つきで一同を見渡した。
「決して」息を吸った。「決して近い将来の話ではない。これから何年かかけて、私たちはこの改革を進めていくことになると思う。そうしてやってくる将来に、私たちの強さは無意味になるかもしれない。少なくとも、為政者としての七騎士はないし、そこに所属する私たちは存在しなくなる」
「僕はそのほうが助かるけどね」
緊迫した空気の中で、マキスが一人おどけた。
「そういう人も、きっと多いでしょう」イゴリダはつとめてか、笑った。「恐らく、その時には戦闘機構に変わって、新たな政治母体が誕生することになると思う。そこでまた、政治に関わりたいというのならそれもいいし、そうした選択を含めてそれぞれ」
一瞬、誰もが呼吸をとめた。
「今後の身の振り方を、考えておくべきね」
3,
閉会後に、ジグとレンだけは残るよう、イゴリダは指示をだしていた。
現七騎士において、恐らくもっとも事務能力が高いのはロザである。次いでイゴリダ。二人には水をあけられるものの、タイロンも優秀に仕事をこなしている。逆に、真面目にこなしはするが不慣れのために捗らない、というあたりにファズとレンが該当し、その後ろにやる気のないジグ、放浪していてそもそも顔をださないハースが続く。
そうした能力の差のため、自然と指示をだす機会はロザとイゴリダが多くなる。また二人の中でも初めからアンチ・バザルタとして活動を行っていたイゴリダが、暗黙的に現状、七騎士内部における事実上のトップといった扱いになっていた。
レンなどは、仕事にミスがあると彼女に指摘されることも多くあり、こうして残るように指示などうけたことも初めてではない。同僚や仲間からの呼び出しというよりも、上司や教官に呼び出されるに近い体である。あるいは厳しい姉、母親、といってもいいかもしれない。
「それで、なにかお話があるんですか」
相手から切り出されるのに先んじて、レンは口を開いた。残るのはイゴリダだけかと思っていたが、その脇にはマキスも控えている。自分と同じくジグも場に残っているが、彼もなんの話をされるのかはわからないらしく、いつも通りむすりとした顔のままで座っていた。
「そう。話というより、提案ね。あるいは相談、かしら」表情は微笑のままに、首をかしげる。「実はとびきり不愉快な話なんだけど、できたら二人とも怒らないで聞いてほしいの」
「提案。私たち二人に、ですか」
意味深な切り出し方に、やや訝しげなものをおぼえる。
「ええ。もし承諾してくれたら他のメンバーにも話すつもりよ。ただ断るなら、ここだけの話にしておいて欲しい。実のところ機密という訳でもないのだけど、困ったことに本当に不愉快な提案なの。全員の気に障らないようには、話せないと思う」
そういってイゴリダは、皮肉げに口元をゆがめた。
「おれも聞く必要があるのか?」
「キミも当事者なんだよ、ジグ。そんなに長い話にはならないから」
マキスはいつものようにジグをなだめていた。
「さっさとして欲しいんだが」
「……そうね」イゴリダがため息をついた。ほどよく諦観の浮かんだ顔に「本当はもう少しじっくりと話を進めたかった」と書いてある。
「要は、あなたたち二人にね、不正を働いて貰いたいの」
「不正?」首をかしげた。
「そう。平たくいえば八百長ね」
それがなんでもないことのように、イゴリダはいった。
八百長。
レンはきょとん、とイゴリダの顔をみた。ジグも恐らくは同様だろう。
――八百長?
よく、わからなかった。
「やお、ちょう?」
言葉の意味が飲み込めず、聞き返す意図もなく口の中で繰り返す。
「もちろん義務じゃない。絶対にしなきゃいけないって訳じゃないんだ」と、マキスが早口にいった。まるで言い訳するような様子が滑稽にうつるが、それが笑っていいところなのかさえわからない。「ただ、協力してくれるなら話が早いんだよ。ランク戦そのものだとか、そもそも君たちのプライドを汚すマネだとはわかってる。でも、できたら、できたらでいいから、考えてみて欲しいんだ」
ランク戦。
ランク戦で――八百長を?
言葉は咀嚼のように頭の中で何度もかみ砕かれ、それから脳を転がって納得のできる収まりどころを探した。そうして得られた一定の理解。先ほどの話に出てきた、ミスターJというランカーの名が、レンの中に浮かび上がった。
「レンのほうは、なんとなく理解してくれたのかな」気遣う様子で、マキスがおずおずという。
「どう、でしょう」自信はなかった。
「……おれは全然わからない」
ジグがうめいた。
「そんな。わたしにだってわかりません」首を振った。「でも、ジグさんのほうは。いまはジグさんがランキング一位だから、もしも、いまの体制を変えるなら、それは」
「そう。『打倒機構』の意志を持った人間は、いずれにせよ、最終的にはジグを倒されなければいけないわ」
話の続きを、イゴリダが引き継いだ。
「内部から改革することで誰もが納得するような形は作れない。だから、改革というのは外の人間が行わなければならないの。ランキングに疑問を持って、これを壊そうとしている人間がランキングを制する。それなら、誰も文句はいえないでしょう? ただ、私たちはそれが自然に起こるのを待ってはいられない」
「だから八百長か」
ジグの理解に、イゴリダは頷いた。
「そう。あなたが一位を譲ってくれればとても話が早い。もちろん他の方法も考えてはいるけれど、これ以上に効率的な案は絶対にでないと思う」
「気に入らないな」
「でしょうね」
むすり、と腕を組むジグに、イゴリダはそういって苦笑した。穏やかな表情ではあるものの、それでも彼女自身も望ましい案だと思ってはいないと、レンはそれをなんとなく感じることができた。
気に入らないのはレンも同様だ。意識していたわけでもなかったが、気がつくと表情に力が入っている。不機嫌げなジグに劣らず、自分もかなり険しい顔になっているはずだ。もともとが、不正を嫌う質である。
なにより、もう一つ腑に落ちないことが残っていた。
「それ、わたしにはなんの関係があるんですか?」
レンは首をひねる。ジグがミスターJか、もしくはその一派の人間にランキングを譲る。それはいい。だが、それだけで話はつくはずだった。自分に同じ提案がくる理由がわからなかった。
ナンバー2であるハースこそ八百長に応じるとは思えないものの、自分の上にはまだタイロン、ファズが控えている。何人かがそうした真似をする必要があったとしても、自分より先に話が行くべき人間がまだいるはずなのだ。
予想された問いだったのか、イゴリダは一瞬悲しげに目を伏せて、それからもう一度レンのほうを見た。
「理想的には、という話なのだけど、欲をいえば私は、ミスターJに敗北するのはあなたであって欲しいと考えているの」
「なぜですか」
訳のわからなさに苛立ちながら、レンは聞き返した。
「単純にインパクトが強いからよ。体制が倒される瞬間の衝撃が大きければ大きいほど、改革は浸透しやすいはず。ジグはレンにランクを譲って、一位としてあなたがが定着したころに、外部の相手に敗北する」
「だから、なぜわたしなんですか!?」
隻眼が、まっすぐにレンを見ている。
「サルバトーレのレン。戦候機構を設立したのがバザルタと、あなたの家だから。あなたが敗北することで機構が消滅し、その歴史に終止符を打つ。そうなるなら、それはとても象徴的な出来事であると、私は考える。……恐らくは、多くの民衆も」
イゴリダの語りが終わると、三人が一様に自分を見ていた。
言葉に詰まる。
サルバトーレの末だから? だからわたしがその歴史に終止符を打つ?
――八百長で?
「考えておいて」
冷たい声色に、一瞬、うめき声さえでなかった。
4,
「部屋に、戻らないのか?」
訓練室だ。呆けていると、ジグの声がかかった。
「は、はいっ!?」
びっくりする。
「さっき、使い終わったから戻る、といっていただろう」
訓練場の中心であぐらをかいて、奇怪なものをみるようにジグは眉根を寄せた。言葉は、はやく休みたいから出て行け、ともとれる。
「あ、え、はい」
邪険にされているようで、そう思う理由もわからぬままレンは少ししょぼくれた。ジグも、一人で考えたいのかもしれない。あるいは、もう、結論が出ているのか。
「あの、ジグさんはもう、決めたんですか?」
思わず聞いてしまった。
「決めた? なにを」
「イゴリダの話です。八百長をするか、しないか」
「ああ」その話か、とジグは頷いて「いま、決めた」
「いま?」
「引きうけようと思っている」
ジグはいった。とくに迷いの残る口調ではないと、レンには感じられた、
「どうしてですか!?」
思わず叫ぶように尋ねると、ジグは面倒くさげに表情を歪ませた。
「理由がいるか?」
「いりますよ。だって、あんなの。引きうけたくないと思って当然です」
「……かもな」
「だったら!」
「必要なことなんじゃないか」
にべもない、といった感じだった。
「必要だからって、納得できる話じゃないでしょう!」
レンの叫びに、ジグはため息を一つつき、
「むしろ、じゃあ、なんであんたは引きうけないんだ?」
あろうことか、逆に聞かれてしまった。
問われ、どうしてだろう、と考える。
「だって、こんなの、ひどいです」ぽつぽつ、と答えはじめた。
「なにが」
「わたしたちは、こんなことのために強くなったわけじゃありません」
「おれの理由を勝手に決めるな」
断定する口調にあきれるように返して、ジグは顔をしかめ、そんなやる気のない様子を、叱責するつもりでレンは相手を睨みつけた。そうして「でも、その通りでしょう」と無言に目線で問いただせば、事実を認めるようにジグはそっぽを向く。
当たり前だと思う。こんなことをするために、日々の修練を積んできた人間などいるはずもないのだから。
「そんな適当にいわれても、納得できるわけありません。必要だからって、そんな風に自分のランクを軽々しく……おかしいです、そんなの」
腹立たしさにレンは唇を咬んだ。おかしいと感じるのは自分の都合ではないのかと、頭のどこかで思った。イゴリダの提案を不愉快と思う、その自分の感情を相手に投射しているだけではないのかと。だが、わかっていても言葉は止まらなかったし、怒りは収まらない。根底には、同じ苛立ちがジグにもあるはずという期待がある。
八百長など、と思う。もちろん、レンとしてもランク制を廃止すべきという大義そのものに異議はない。しかし彼女にとってその考えは、ランク制の中で戦ってきた者の熱意を否定していい、という意味まで含むものではなかった。
加えてイゴリダとマキスは、ランクの中で戦っていないのだと、そんな思いすらある。彼らは外部の者だから、それだけ卑劣な真似を思いつくのだと。まるきり、ひがみのような悪感情だった。
いまだ戦候機構の考えが、自分にべったりと根付いていることを自覚し嫌にもなるが、しかし思いだけは容易に止められるものでもない。
「ジグさん、許せるんですか?」
「……強さは手段なんだろ」
「ですから、手段を悪辣さを問題にしているんです!」
「それでも最善なんじゃないのか」いや、とジグは自分の発言に自らかぶりを振った。「おれは最善なんじゃないかと思う、だ。イゴリダが間違ったことをしようとしていると、おれには思えない。それにもっといい方法を、おれは思いつかない」
ジグはそこで言葉を句切り、
「強くなりたかったんだ」なんでもないことのように、ジグはいった。「おれにとってのランクは……単にその目安だ。たぶん」
そういって目をそらす。仕草は発言した内容について、気にしていないようにもみえ、あるいは話しすぎたことにすこし羞恥を感じているようにもみえた。
「だから、おれは受けるつもりだ。あんたがどうするかは、しらないが」
――本当にそれで許せるものだろうか。
「……ッ」
さらになにかを聞こうとして、問いが口からでてこなかった。
思う。
平気なのかもしれない。
きっと平気なのだ。
自分は平気ではなくても。
――ジグさんは。
そう思って。
「? おい?」
そこで、こらえきれなかった。
ジグの声。
歯を食いしばったが、どうしても抑えきれない。
悲しいものは悲しいし、悔しいものは悔しいのだ。
どんなに我慢したとしても、そうだ。
だから無理だった。
目の前のジグがぎょっ、としているのも、気配でわかった。
「おい」
また声がかかった。返事はできない。
なんで泣くんだ、と聞かれるかと思ったが、そのままジグは黙り込んだ。聞かれても答えられなかっただろう。そのままレンは立ったままで、声もあげずにいた。ジグもそのままじっとしていた。自分で握りしめた拳が痛いくらいだが、なかなか力を弛めることができない。
さすがにあんまりな様子に、ため息をつかれたり、あきれられたりするのが怖かったが、ジグの無表情からはそういった感情も読み取れなかった。
自分はジグではないからだ、と思った。
「だって」ひっくり返った声でようやく「み、惨めじゃないですかぁ……」
それだけを絞りだす。
イゴリダから提案を受けた時、ジグは「考えておく」とだけいった。対してレンは、呆けた状態から回復するやいなや「バカにしていますッ!」とその場で叫び、そして七騎士の間を飛び出したのだ。
あの時も実際には、バカにされていないことくらいはわかっていた。
ただ、自分がランキングを譲られることや、譲られたランキングをわざと負けることで他人に受け渡すこと。自分が無視され家柄だけが利用されるような計画。誇り高いと思っていた自分の家が酷く貶められること。押し並べて、それらはひどい屈辱だった。
しかし、それでも話は合理的だったのだ。
すべて渦巻く憤りの原因だったが、それとは全く別のことに、自分は傷ついているような気もしていた。
要は本当は、そんなことはどうでもよかったのかもしれない。
そう、結局、惨めだと思ったのだ。
それをわざわざ口に出すことで結局、どんどん惨めになっていく。
「鼻水でてるぞ、おまえ」
声色が明らかに退いていた。ぐしぐしと袖口でこすると、たじろぐ気配がある。
「わたし、じ、ジグさんには、断って欲しいんですよ」
しゃくり上げて声は震えるにまかせたまま、いいたいことをいう。
「ずるい、ですよ。そんな風に、目的が正しいとかいわれたら、断れないじゃないですか。一位のジグさんが引きうけて、それで五位のわたしが断ったり、できないです」
「関係ないだろ。好きにしろよ」
「できないです」
繰り返して、また鼻をすすった。
「それで、そうして、わたしが、ジグさんと戦って」くぴ、と息を飲んだ。「ジグさんが、わざと負けるんですか?」
嫌だ。
心の底から、そう思った。口にしたことで、より嫌悪感が明確になる。
そうなのだ、とレンは思った。自分が計画を首肯することは、つまるところ、その展開を許容することではないのか。
ジグに挑戦し、彼がわざと負けるというシナリオを是とする自分など、それを想像するだけでも吐き気がした。
どうしたって、それは、嫌だ。
「だから、そういう計画だろ」
ジグはいう。
「それが嫌なら、乗らなければいい。あんたの勝手だ」
「だから、無理なんです!」
首を振る。実際にその場面になれば、どれだけ嫌でも自分が断れないことを、知っていた。自分を動かすものは、多くの場合に大義であり、倫理だ。そしてプライド。かくあるべしと己を規定し、そこに根を張って己がある。自分は、どこまでもそういうもので、どうしようもないのだ。
正しさは強い。
きっとそうしたら、世界はよくなるのだ。多くの人が、新しい制度を受け入れるようになる。
その正しさに逆らえない。
それを、どうしたらわかって貰えるんだろう?
だから、目の前の男に「ずるい」などと言いがかりをつけこんな風に甘えることそのものが、倫理にもとる行為だという問いを、いまは棚上げにした。
わたしをわかって、と駄々をこねてもいいはずだ。
どうせ自分は断れないのだから。
「なんで平気なんですか」詰め寄る「わたしのこととか、どうでもいいんですか」
「なんの話だ」
「同期で、ライバルです」
踏み込んだ。
「なんの話だよ」
「……どうでもいいんですか」
「だから、なにをいってる」怪訝そうにいった。「ランクの話だけだろ。別にそれで実力が変動するわけじゃない。それくらいのことは、あんたにだって」
「誓いは」
「誓い?」
「宣誓を述べました」
強きを求め、戦いに生き、大功を成さんこと。
「述べたんです」
また涙がでる。
そうして格好悪く膝を折る。
5,
「ごめんなさい」
すこし、落ちついた。
気がつくと自分の部屋にいた。部屋にジグがいるのは単純に新鮮な光景で、たぶん、送ってもらって自分がむりやり連れこんだのだと思うが、記憶は判然としない。
「別に」
と、ジグはそっけなくいった。
であった頃からそうだったが、なにを考えているのかが、わかりにくい人間なのだと思っていた。それに対して「単になにも考えていないんだ」と、彼を古くから知る人はいう。案外、本当はそうなのかもしれない。「あ、なんだかそっけないな」と、そんな風に相手が感じるだろうとか、そういった予想が恐らくジグの中にはない。とりあえずその場をやり過ごす返答をしているだけで――そう解釈すると、腹立たしい反面、なんとなく可愛らしい気もしてくるのが不思議だった。
「そういえばジグさんは、戦候機構がなくなったら、どうするんですか」
その点については、なにか考えているんだろうかと、ふと思った。
「どうするって、なにがだ」
「だって、機構にのこるという感じでは、ないですよね」
「……かもな」
「なにか考えがあるんですか」
ジグの表情が思案に沈んだ。これはたぶん話すべきか迷っているのだろうと、レンは思った。もし考えがないならそれこそ「別に」と答えただろう。
「話してください」
「……面倒だ」
「話してくださいっ」
繰り返すとジグは目を閉じて、深く息を吐いた。
怠そうに、しかし眉根は寄せたまま、
「旅にでる、つもりだ」
「旅?」
「ああ。……他のヤツに話すなよ。ファズとか……。まだ、誰にも話してない」
「黙ってでていくつもりだったんでしょう」
ジグは視線をそらした。悪事を叱責された子供のようだ。
「なにか目的があるんですか。ハースのように、単にふらふらとしたいだけですか」
「いや、人が住めるところをさがす」
「……?」
思いのほか答えは早く返ってきたが、しかし意味を理解しかねた。
「引っ越しですか?」
「かもな。機構がなくなった後のことを、考えて、そういう話がでた。富はある程度均等になるのが理想だろうが、たぶん、そうはならない。これから人口が増えることまで考えると、全員でわけるにはそもそも資源が足りない。いまは人がガンドアに集中しすぎてる……。そんな話だ。世界にはもっと、人が住める場所があるはずだと」
「それ、ジグさんの考えですか?」
「いや、リドとタイロンの受け売りだ」
でしょうね、と思ったのは、顔にださないように努力した。
「以前にリドがいっていた。『ガキの頃から家らしい家なんてなかった』と。人間がもっと世界に均等に広がることができるなら、それも解消すると思う」
「それをジグさんがさがす?」
ジグはかるく頷いた。
彼は短期間ながら、租界で暮らしていたことがある。そのあたりがひょっとすると、感情移入するポイントになっているのかもしれない。あるいは、もともとが放浪民族の出だからか。
「こっちにいるよりは向いてるはずだ。どこでも寝られるし、雑草だって喰えるからな」
自分にはない才能だ、とレンは思った。ついていくことはできない。
遠くを見ている、と思う。
「だからランクはどうでもよくなったんですか」つい言いがかりをつける。
「違う」ジグは首をふった。
レンがにらむ。と、ジグはばつの悪そうにあたまをかいた。「あんたが……」言いかけて、「……いや、なんでもない」とまた首を振る。
「なんです」
「だから、なんでもない」
のらくらとした調子に苛立った。
「ジグさん、前に、わたしが好きだっていったこと、覚えてますか」
「は?」唖然とした。
「だから、そうやって一人で目標を決められて、正しいほうに進んでいかれると、無視されてるみたいで寂しいんです」なんでもいえてしまうテンションだった。「ジグさんはそういうところ、気をつけてください。もっと、細心の注意をはらって」
「――あんた、どんどん面倒くさくなってくな」
「そういうものなんです」
色々いえるのはつまり、別れが近く、決意が固いことがわかったからかもしれない。
そういう未来がやってくるのだ。
機構は消え、サルバトーレの名声も失せ、強きに意味はなくなり、ジグはいずこかへと旅立つ。
空しい、と思った。
「――あ、でも、ジグさんがそういう目標を持っている人だとは、思ってませんでした」
それは純粋に驚きだった。
冷たい人間とは思わないが、他人の利のために積極的に動く人間だとも思っていなかった。
要は調査隊であり、尖兵である。
「疾き干戈だ」
「はい?」
「いや……」ジグは息を吐いた。眉根を寄せて、しかめ面をつくる。「だから、元々はあんたがいったんだろ」我慢しかねる、というようにジグはいった。
「わたし?」きょとん、として相手を見返す。真剣な表情だった。「なにがですか」
「だから……あんたが、ハースと会ったときに」
ジグは記憶を掘り返すように目を閉じて、
「初めて会って、すぐの頃だ。あんたがハースを見て、正しい目的を持たないからああいう風に、ふらふらするんだと。あと、強さは手段だとか、強さが目的なら、おれがランク一位になった時にいったいどうするつもりなんだとか」
そう、ひとつずつ思いだすように、ジグはいった。言葉には確かに覚えがあって、そういわれれば、もしかして自分はそんなことをいったかもしれない。
恥ずかしいな、と思った。なにを偉そうに説教をしているのだろうと。なにせ彼がそのあと事実一位になるなどと、その時の自分はカケラも考えてはいない。
「よく覚えてますね」
「いらついたからな」
吐き捨てるようにいった。
「だから正しいと思える目的を――すこしさがした。おれがそれを持ってると思うんなら、たぶんそれは、あんたのせいだ」
ジグは目を落として、それからレンのほうをみた。
どきりとする。
「そう。だから、それであんたに苛立たれても、その、なんだ。……こまる」
そういった。
それで。
とん、と。
言葉が軽く胸をつく感じがした。なにかが満ちて、代わりになにかが抜け落ちたような感覚があった。
呆けたみたいに相手を見つめる。
「ジグさん、ずるいです」
「なにがだ」
「――言いかえせません」わずかに笑った。
「言いかえしてるだろ」ジグは憮然とした。
そのやり取りで、彼はそれでいいのかもしれないと、少しだけ思えた。自分の身の振り方には未だ納得のいかないところがあるのだが、しかし、ジグは正しいと、そう思う。
知っていたことだし、自分にはなんの口出しをする権利もない選択だ。
それでも納得できたことは、どうしたって嬉しい。
「ああ……そうか、まず、わたしが実力でジグさんに勝てばいいんですよね」
「なにがだ」
「そうしたら、八百長するのは一回で済みます」すこしだけ、色んなことを前向きに考えられるような気がした。「ジグさんも勝ち逃げみたいにならずに、負けてすっきり旅立てますよ」
にぃ、と笑った。もちろん挑発だ。
やれるものならやってみろ――だとか、そんなような返答がかえってくると予想があった。
しかしジグは穏やかに、
「それもいいかもな」
という。
びっくりした。
しかも答えるジグに、なにか余裕があるようにもみえる。
「俺にとってランクというのは与えられるものじゃない」すこし溜めて、「――自分で決めるものなんだ」
棒読みだった。
「……なんですか、それ」
訳もわからなかったので、聞くと、
「とっておきの――――いや、いい。忘れてしまえ」
そういって、ジグは首を横に振るのだった。
epilog.
息が白い。季節のせいではない。朝と夜の、寒暖差の激しい土地である。いまだ太陽も昇りきらない時間に、雲を透かした朝焼けだけが音もなく、荒地をまだらに染めている。動物もまだほとんどが寝静まって、あたりはひどく静かだ。
肌寒さを感じて、レンはすこし震えた。この程度は、もちろん旅の厳しさのなかではぬるい部類のものだろう。ジグのこれからゆく、道のりの険しさを思った。
赤茶けた土と、岩の混じり合った大地に、二人で立っている。
結局、ジグは誰にも告げずに旅立つようだった。だから必然ジグの旅立ちを、レンは一人で見送っている。
特に交わす言葉もなかった。旅立ちの段になる。まずカンタレラの跡地に寄り、そこからの行き先は、それから考えると聞いていた。せめてそこまで着いていく、とはもちろんいったのだが、一人で行かせろと突っぱねるジグに、結局押し切られた形だった。
次はいつ会えるのだろう。
「あの、帰り、ずっと待ってますから」
いうと、ジグは「ああ」とうなずいた。たぶんだが、発言の意図が伝わっていない。迷ったあげくに、「わたしも住めるところ、探しておいてくださいね」と押していった。ジグはやはり、曖昧にうなずいてみせる。
好意を伝えているつもりなのだが。
なかなか難しい。
そうして、挨拶もほどほどに、背を向けるジグを見て、そこにかける言葉を探した。
見つからない。
旅立つ彼と、残る自分の断絶を思った。
もちろん、現実に離ればなれになるのだ。物理的な距離の予感は、言葉で埋まる類のものでもなかった。
黙って見送るべきだろうかと、なにか心細い思いをしながら背を見る。すると、二、三歩進んだ所で立ち止まり、ジグが振り返った。その距離を保ったままで、二人、向かい合う。
「おれは旅立つ」ジグがいった。
「……? はい」
「あんたは残る」
「はい」
うなずいた。当たり前の確認だった。
なにがいいたいのだろう、と思った。
「なら、誓うか」
一歩、ジグのほうから距離が縮んだ。
ジグの目を、レンは見た。ジグが自分を見ていない、と思った。視線はたぶん、未来のようなものに向いていた。
ふと、一瞬だけ、脳裏に思いだす光景があった。言葉少ななジグの説明にあって、その意図を自分は正確に汲んでいると、奇妙な確信にいたる。
いま、自分たちは同じ光景を思いだしている。
あの日。
自分たちは、同じ時に同じ場所で誓ったのだった。
一歩、レンのほうからも歩みを進める。
侯牽の剣佩く御旗の下。
強きを求め、戦いに生き、大功を成さんこと。
「我、堅陣の礎となり」レンが朗と唱え、
「我、精鋭の疾き干戈たらんこと」ジグは応と答えた。
それを。
――古の法に従い、ここに誓う。
振り返って歩んでいくジグの背を、レンは今度こそ無言のまま見送った。
自分は待つだろうと、レンは思った。強くあろうという意志を捨てず、この国の礎として守り続けながら、きっと待つだろうと。
錯覚ではないはずだ。
絆がある。
彼は全き干戈たらんとし、一人去っていく。
その光景を眺めながら、いつまでも、いつまででも自分は彼を待つだろうと。
誓いが胸にある限り、ランクを捨て、誇り高く旅立つ彼の背も、また自分の中に息づく。
それは恐らく永遠に近く。
思いだけを糧に待ち人を望むこの孤独が、独り旅立つ彼の孤独に釣り合えばいいと、そんな風にも思えた。
――果たしてジグのその旅に、ファズが同行したとレンが知るのは、あと、もう少しだけ未来の話である。
(了)